「常識」対「常識」の争い
「普通さ、」「当たり前だろ」「常識だ」
人間社会で生きているとしばしば
“常識”を押し付ける上司と
“上司の常識”を拒否する部下の戦いを目にする。
この様なすれ違いはなぜ起きるのか?
どうも、
名古屋の美容師、そして人間の研究家
亀田トオルです(`_´)ゞ
服装に関する普通や常識、
髪型に関する普通や常識、
業界に関する普通や常識、
こう言ったわかりやすい話だけではなく、
人間社会にはよくわからない常識がたくさんある。
例えば、学生の頃の話だが
『1年生の女子生徒の靴下は3つ折り』
という“常識”があった。
皆んなそれを当たり前だと感じ従っていたのだ。
この様に誰がいつ決めたかわからない
常識というのは世の中にはたくさん存在する。
また、会社規模で見ても
その様なよく分からない常識が蔓延しているのだ。
しかし現代の少し違ってきたところが、
“常識”に対して「何で?」をぶつける部下が
増えてきたところだ。
『ゆとり世代』と言われる世代の登場である。
実はこの
“人の常識”と“私の常識”が異なる
という考え方はとても最近の考え方だ。
絶対的な正しさは無い、多様な思想で世界を見る。
これは「構造主義」と言われる。
それが世の中に広まり出したのは
約40年前、1960年代からだという。
つまり構造主義の歴史はまだ浅いのだ。
世界の見え方は視点が違えば違う。
だから、ある一点の視点から
「正しい」「当たり前だ」
と導きだした答えは、
捉える人や世界が変われば
正しくなくなり、当たり前じゃなくなる。
宗教戦争もそれにあたる。
また心理学的にも、
自分の「常識」は
論理的な思考から生まれるのではなく
思い込み、直感から生まれるということが
数多くの実験から指摘されている。
結局、ほとんどの
「普通」「当たり前」「常識」は
どこかの誰かがつくった枠組みであり、
それが果たして正しいかと言われれば
絶対ではないのだ。
最近だと徐々に
「普通さ、」「当たり前だろ」「常識だ」
という言葉が“世界を知らない”という
無知を露呈するキーワードとなってきた。
上の様な言葉は鎖国的な
狭い世界に済む人たちのものであり
グローバル化した今、
これまでの普通が普通じゃなくなるかもしれない。
おそらくこれからも
“常識”対“常識”の争いは激化することだろう。
しかしその様な争いからは何も生まれない。
これからはお互いを理解する為の
新たなコミュニケーションが
必要となるのかもしれない。
では。
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